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人工知能と相場とコンピューターと|第4回 トランジスタとシリコンバレーの誕生[奥村尚]

人工知能と相場とコンピューターと|第4回 トランジスタとシリコンバレーの誕生[奥村尚]

ベル研究所の三人がトランジスタを開発

 トランジスタは、1947年12月23日が公式な発明日とされています。最初に発明されたトランジスタは点接触型と名づけられていますが、動作が不安定で、1時間も動作させると動かなくなってしまうものでした。

 真空管もトランジスタも、信号の増幅やスイッチとして動作するという点では共通しています。真空管は、電極に高電圧をかけてヒーターで熱して動作させるので大量の熱が発生しますし、電力も消費します。ヒーターが温まるまでは、電子が出ないので動作しません。ヒーターに使われるフィラメントには寿命もありました(長くて数千時間)。しかも、ガラス製であるために大きく重く、振動や衝撃にも弱いもので、移動しながらの利用はできません。

 トランジスタは真空管の欠点をほぼ全て克服したもので、小さく、消費電力は少なく(=発熱も少ない)、衝撃にも強い。ただ、初期のトランジスタは動作が安定していなかったのです。トランジスタを開発したのは、ベル研究所のジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテン、ウィリアム・ショックレーの3人のチームで、主にショックレーが開発を主導しました。点接触型トランジスタは量産に向かず、ショックレーを中心に安定動作を可能にした接合型トランジスタが開発されます(画像①)。

トランジスタの種類

出典:産総研HP

 特許は1951年に発効しました。ショックレーはこの成果で1956年にノーベル物理学賞を受賞します。単独ではなくチームの2人も同時に受賞したためか、ショックレーはおもしろく思わなかったようです(自叙伝で本人が回想)。

 プロジェクトを統括してきたベル研究所長のマービン・ケリーは、トランジスタの発展をベル研究所に限定してはならぬと考え、技術を国家の機密として独占したかった米国国防総省の反対を押し切り、特許公開を決断します。特許は1954年に公開し、かつライセンス料は2万5000ドルという良心的な設定でした。これによりトランジスタは普及し、世の中を一変させたのです。

日本でもトランジスタコンピュータが登場

 トランジスタは、コンピュータにも使われるようになります。この世代を第二世代コンピュータと呼びます。実験室の試作品というレベルでは、1953年、英国のマンチェスター大学が世界発のトランジスタコンピュータを作りました(一部真空管を使っていました)。点接触型のトランジスタを使っていたため、数時間も稼働できませんでした。

 そして1956年(英国に遅れること3年)、日本でも電気研究所(その後電総研、現在は産業技術総合研究所)でトランジスタコンピュータ「ETL MarkⅢ」が試作されました。英国のものと同様、トランジスタが不安定で満足に稼働しなかったのですが、安定動作する接合型トランジスタに置き換えたモデルが1957年に「ETL MarkⅣ」として開発されました。日本電気、日立研究所、松下通信工業などの民間企業が、翌年以降このモデルをベースに商品化を果たします。

 このころ、東京通信工業株式会社(東通工)は日本初のテープレコーダーを開発しており、ETL MarkⅣの磁気ドラムメモリの磁性体開発を行いました。この東通工は、現ソニーの前身です。その後、1955年に自社でトランジスタを開発し、日本初のトランジスタラジオを作ります(画像②)。当時はベル研究所とのライセンス契約のために外貨を使う必要がありました。通産省の認可を受けて外貨を買う時代で、お役人を説得するのにはかなり苦労したようです。

トランジスタラジオ「TR-55」

出典:SONY HP

1950年代半ばと現在の生活水準を比較

 この1950年代半ばは、戦後という言い方も終わるころです。1953年2月1日にNHKが本放送を開始、8月には民放も本放送を開始しました。日本の高度成長は、このころから始まっています。今から65年も前のことですが、タイムマシンに乗って当時を振り返ってみましょう。

 日本は、国連に加盟できていませんでした。ソ連が拒否権を使って反対したためです。まずはソ連との国交回復をする必要がありました。1956年10月にようやくソ連と国交回復して、同年12月18日、国連総会で加盟が承認されます。

 当時の物価を調べてみると、卵1個14円(今と大差ない!)、たばこ30円(ゴールデンバット1箱)、米10㎏1080円でした。物価の割に所得は低く、公務員の初任給は8700円、大卒初任給1万1000円、給与所得者の平均年収が20万8000円でした。

 そのころのドル円相場は固定相場で、1ドル360円です。内閣府HPによると、1955年の国内総生産(名目GDP)は8兆3380億円。一人あたりGDPは9万4000円でした。現在の名目GDPは4兆9564億ドル≒535兆円、一人あたりGDPは3万9182ドル≒423万円(2018年、1ドル=108円で計算)。単純に計算すると、65年間でGDPは64倍、一人当たりGDPは45倍になったことになります。

 物価を調整して生活水準の比較をすると、ラフですがこう試算できます。1955年の消費者物価指数(CPI)=100としたとき、2019年のCPIは600です(総務省統計局のデータより)。現在は当時の物価の6倍なので、(増えた所得64倍)÷(物価上昇分6倍)=(実質倍率10.67倍)、今の方が豊かということになります。これは稼ぎ、つまりフローですが、ストック(個人や国家の財産の蓄積)も65年間でかなり蓄積しています(例えば株価は約50倍になりました)。現代の日本は、当時とは比較にならないくらい豊かです。

世界初のゲームが動作するPDP–1

 コンピュータの話に戻しましょう。IBMは1954年、真空管で設計したコンピュータ「IBM 604」をトランジスタに置き換えたものを世界に先駆けてデモンストレーションし、注目されました。何しろ、1250本の真空管を、2000個のトランジスタに置き換えて体積を半分、消費電力を20分の1にしたのです。しかし、これは商品化されませんでした。次作が開発最終段階であったためと思われます。

 翌1955年4月、IBMにとって最初からトランジスタを前提に設計したコンピュータ「IBM 608」が発表されます。出荷は1957年12月ですから、商品の完成に1年8か月もかかったことになります。

 1957年に設立したディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)は、最初からトランジスタ化したコンピュータを手掛け、1960年に「PDP-1」(画像③)を出荷します。PDP-1はマサチューセッツ工科大学(MIT)にも寄贈。そこでさまざまなソフトウェアが開発され、後世に影響を与えました。テキストエディタ、ワードプロセッサ、コンピュータチェス、音楽、そしてゲーム。全て世界初のコンピュータソフトです。

PDP-1

出典:コンピュータ歴史博物館

 PDP-1のディスプレイは1024×1024の点を持ち、グラフィクス描画が可能でした。世界初のコンピュータゲーム「スペースウォー!」もPDP-1で開発されたものです。スペースウォー!は、コピーと改造自由のパブリックドメインとしてあっという間に広がり、DEC自身もPDP-1を売る際にこのゲームをつけたほどでした。

 なお画像③に写っているのは、当時MITの学生でスペースウォー!を開発したスティーブ・ラッセルです。彼の後ろにある円形のディスプレイにグラフィクスが表示されます。

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AIという言葉の誕生は1956年

 1956年、人工知能の分野でも重要なイベントがありました。ダートマス大学の助教授であったジョン・マッカーシーが主催した世界初の人工知能に関する会議(ダートマス会議)です。その提案書の中で、人工知能(Artificial Intelligence:AI)という言葉が初めて使われました。会議の発起人として、マービン・ミンスキーも名を連ねていました。

 この会議は、ロックフェラー財団から7500ドルの支援を受けることができ、開催されました。参加者は10人で、2か月間にわたる夏合宿だったようです。発起人を含めた10人の人工知能研究者が議論をしたようで、アジェンダはこのようなものでした。

①コンピュータで知能の機能を正確に記述すること

②コンピュータが人間言語を処理すること(自然言語処理)

③ニューラルネットワークを使って高次のタスクを遂行できること

④計算の複雑さに関わる理論を作ること

⑤コンピュータが自己能力を改善する学習能力を実現すること

⑥抽象化の機能を実現すること

⑦示唆に富むヒントに対し創造的思考を実現すること

 今日の人工知能に関する問題のほぼ全てが1956年に議論されていたのは驚きです。

 マッカーシーは、人工知能の概念を唱えたノイマンからも影響を受けた、人工知能の父です。彼は1958年にMITで「LISP」という人工知能の開発言語を考案し、その後1962年にスタンフォード大学で人工知能研究所を設立しました。

 一方のミンスキーは、マッカーシーと共にMITで人工知能研究所を創設し、やはり人工知能の父と呼ばれた人です。知識をコンピュータ上に記述するモデルの一種である「フレーム理論」を考案し、また映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)のアドバイザーでもありました。

シリコンバレーの起源

 話が前後しますが、ベル研究所でトランジスタを開発したショックレーは、1956年にショックレー半導体研究所という会社を設立しました。設立した場所は、カリフォルニア州パロアルトです。ここがシリコンバレーの中心となったのです。サンフランシスコと、60㎞ほど南にあるサンノゼの中間に位置します(画像④)。当時はぶどう園でした。

シリコンバレー

google mapで著者作成

 ショックレーが幼少期を過ごしたのはマウンテンビューで、パロアルトの近所です。そして、パロアルトの横にはスタンフォード大学がありました。ショックレーの会社から巣立った人材が独立して、その後フェアチャイルドやインテルを立ち上げます。ショックレーが集めた優秀な人材に半導体の教育をしたのがきっかけで、スタンフォード大学やパロアルトを中心にシリコンバレーといわれるようになりました。残念ながらショックレーの半導体事業は失敗しますが、シリコンバレーの父として記憶されています。

 もう一人、シリコンバレーの父がいます。スタンフォード大学電気工学の教授であったフレデリック・ターマンです。1950年代のスタンフォード大学は、全米的には無名の地方大学でした。卒業生は地元で仕事もなかった時代です。ターマンは教え子のビル・ヒューレットとデイブ・パッカードに、ここで起業することを勧めます。二人はヒューレット・パッカード(HP)を設立し大成功しました。

 さらに、ターマンは大学内の広大な敷地を利用して、工業都市を作ります(スタンフォード・リサーチ・パーク)。ショッピングセンターまで作りました。教員も最高の学者を高給で雇いました。HPの他、コダック、ゼネラル・エレクトリック、ロッキードなどが入居します。特にロッキードは、この地域だけで5000人の従業員を抱える企業となりました。時代的にも、当時の冷戦下で米国は科学技術振興政策を進めており、多くの資金を呼び込むことに成功します。

 現在、シリコンバレーに本拠を置く会社は、Google、Apple、Facebook、インテル、AMD、Yahoo!、HP、eBay、アドビ、オラクル、シスコ、ウーバー、テスラと、いくらでも出てきます。こうした企業の価値(時価総額)は、日本全ての企業価値をはるかに上回るものになっています。

※この記事は、FX攻略.com2020年7月号の記事を転載・再編集したものです。本文で書かれている相場情報は現在の相場とは異なりますのでご注意ください。

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